藤堂高虎を主人公に描いた『下天を謀る』を読みました。藤堂高虎についての小説を読んだのは今回が初めてです。

藤堂高虎について

藤堂高虎の生涯

藤堂高虎は7回主君を変えたというが、その変遷は次の通りです。

  1. 元々は浅井長政に足軽として仕えていた。
  2. 浅井長政が織田信長によって滅ぼられると長政の旧家臣だった阿閉 貞征(あつじ さだゆき)に仕えた。
  3. その後同じく浅井氏旧臣の磯野員昌(いその かずまさ)に仕えた長くは続かずかなかった。
  4. 地元近江国を出て、織田信長の甥・織田信澄に仕えることになるが、やはり長くは続かなかった。
  5. 信澄の元を出た後は、しばら浪人をしていたが、天正4年(1576年)に羽柴秀吉の弟・羽柴秀長に300石で仕える。秀長が死去した後は羽柴秀保(秀長の甥で養子となっていた)に仕え、後見人となる。しかし秀保が早世(謀殺の疑いあり)したため、乱世を嫌い出家する。
  6. その後、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる。
  7. 関ヶ原の戦いでは、徳川家康側につき、重用される。そのまま家康陣営の参謀的存在となり、外様大名でありながら、譜代大名と同列、あるいはそれ以上の存在感をなす。家康死去の際は枕元にも呼ばれれいる。家康死去後は2代将軍・徳川秀忠に仕えた。

 

このように何度も主君を変えたことから、藤堂高虎は変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多いです。

 

しかし、これは儒教的な考え方であり、戦国時代においては自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前の時代です。

 

今の感覚で言えば、藤堂高虎は名うてのビジネスマンでキャリアアップの転職をくりかえし、最終的には日本を代表する大企業の取締役まで登った、というところですね。

豊臣秀吉はホームレスから一代で日本最大の財閥を築いたようのものなので、秀吉には一歩及びませんでしたが、異例の出世というべきです。

 

現代では企業の寿命は30年とも言われ、転職することも珍しくない時代になりました。

今の世の中から見ると、藤堂高虎の生涯は変節でも不忠とも感じませんね。

高虎の統治国

藤堂高虎は藩主として伊予今治藩、後に伊勢津藩を治めています。

伊予今治藩

今治(いまばり)藩は現在の愛媛県今治市。

藤堂高虎はもともと伊予国国板島(後の宇和島市)で7万石を領有していたが、関ケ原の戦いの功績によって20万石に加増された。同時に今治市内にあった国分山城に移り今治藩が立藩したました。

伊勢津藩

津藩は現在の三重県津市。

 

戦国時代では津は安濃津(あのうつ)と呼ばれ長野工藤氏の支配下でした。

しかし長野工藤氏は織田信長に降伏し、信長の弟・織田信包を養子に迎え当主としています。

信包は信長死去後は豊臣秀吉に仕え、近江に移封されました。

代わって安濃津に入ったのが富田知信。

富田知信死去後は子の信高が継ぎ、後に伊予宇和島藩に移封されました。

 

富田信高の後に藤堂高虎が伊予今治藩から移封してきました。

藤堂家は高虎を初代として、伊勢津藩を江戸時代を通して治めていました。

 

第11代当主・藤堂高猷(とうどう たかゆき)のころに大政奉還があり、高猷は津藩知事に任じられました。

明治4年6月28日に高猷は隠居し、子の藤堂高潔が第12代藩主と津藩知事には就任。

しかし直後7月14日に廃藩置県により津藩は廃藩となり、安濃津県となりました。

翌年明治5年に三重県と改称されて、明治9年に度会県(わたらいけん)を編入し現在の三重県となりました。

高虎の特技

藤堂高虎はいくつもの特技を持っていました。

①まずは武者としてかなりの腕前であったこと。190センチ台の長身であり、船上では剛勇無双の働きをしています。

 

②次に築城の名手となっています。和歌山城や板島(宇和島)城を手掛けた後、海城でる今治城に取り組み、層塔型の天守閣や正方形の曲輪を用いた日本初の築城様式を確立しています。

 

③さらに配下には伊賀忍者も多くいて、情報収集納能力が高かったこと。その情報を駆使して家康を危機からなんども助け出しています。

 

④また独自の海軍も育て上げ、豊臣秀吉の朝鮮出兵時には海軍総督に任じられています。このとき司令艦として日本丸という鉄張り、大砲つきの戦艦を与えられています。

 

為政者としても有能であり、羽柴秀長の元では100万石の家老に抜擢され、秀長死去後には後継ぎである秀保の後見人にもなっている。自身が大名になった後も領国経営を成功させ、領民の暮らしを向上させています。

 

⑥天下の参謀として、家康、秀忠の統治を助け、江戸時代300年の礎を築きました。

 

現在で言えば、やり手の営業マンとしてスタートして、独自の強みがあり、情報ネットワークも広く、面倒見も良くて、社長としても会社を大きくし、親会社の取締役として日本全国に影響を与えた、といったところでしょうか。

感想

今回初めて藤堂高虎という人を扱った小説を読みました。普段よく読むのは戦国時代では初期から中期、信長が本能寺で討たれるところあたりまでだったので、そもそもあまり知識のない時代の話でした。

 

話が面白くなってくるのは羽柴秀長が死去後、秀保の後見を行うあたりからです。

上下巻で全12章のうち第5章以降が高虎の苦悩を多く語っていて面白いです。

 

特に下巻の関ケ原の戦い以降は一気に読んでしまいました。

関ケ原の戦いが豊臣家vs徳川家ではなく、豊臣家内の派閥争いであったこと、関ケ原の戦い後の徳川家康の豊臣秀頼・淀君の懐柔施策など今回が初めて知る内容でした。

今まで間違った知識を持っていました。

 

 

秀吉配下にいる頃から徳川家康に強く惹かれる藤堂高虎ですが、その心は旧主・羽柴秀長の領民を思う心でした。

領主は領民を幸せにするために存在する」というのが秀長の哲学でした。

 

徳川家康の旗印は「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)

厭離穢土欣求浄土とは、「争いで穢れた国土を住みよい浄土にする」という意味です。

 

秀長の哲学を受け継いだ高虎が徳川家康に共鳴したのはわかる気がしますね。

 

 

築城のシーンも印象的でした。

高虎が日本の城建築の一様式の創設者だったことも初めて知りました。

知らないことだらけですね。お恥ずかしい・・・

 

まずはビジネスマンとして一流であること、

そしてそれに加えて第二、第三の刃を持っていることが重要であることがわかる小説でした。

 

しかし一番大切なのは自分の想い、信念に命をかけられること。

「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」

藤堂高虎の遺訓ですが、「毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよ」ということ。

 

毎日をだらだらと過ごすのではなく、今日この一日を真剣に生きることが大切だということがわかります。

今日を真剣に生きるとは、人生の目標を明確に持ち、その目標に向かってしっかりとした計画を立て、毎日PDCAを繰り返すことだと思います。

 

改めて長期計画を作り、毎日のPDCAを行っていくことにします。

まとめ

知識の薄い時代の話だったので小説のどの部分も新鮮に読むことが出来ました。

とても面白い一冊でした。

 

時代小説をちゃんと読んだのは久しぶりでした。

歴史ものはやっぱり得るものが多いので、これからも時間を見つけてちょくちょく読んでいくことにします。